最近、いわゆる後期高齢者、もとい長寿医療制度の研究の集計作業をしている。
尊厳死という者がイタリアでも騒ぎになったが、日本も遠からずな議論はあるようだ。
介護保険制度は、病気でない高齢者に現在の生活レベルの維持を目指した、
僕なりの解釈では、病気にならない、医療費のかからない高齢者作りの制度である。
それを実現するためにいくつかのカテゴリーの施設があり、
目的は前述のようによりよく生きるというポジティブなものである。
しかし、後期高齢者制度は、
言い方を乱暴にすると、死んでくださいの制度なわけである。
もう少し説明すると、癌などの治癒が見込まれない方を対象に、
無理な延命ではなく、自然なそして充足に満ちた最期を迎えられるように、
人生を少しずつフェードアウトするものである。
だから、一方では健康で長生き!といいつつ、もう一方ではもうこのへんでしょう…という。
もちろんこれを同施設でやるというのは難しい。
自分としては、別に誰かのまわしものではないが、どちらの考えも理解できる。
でも、自分がその当事者になったとき、どう判断するのだろうか?
自分を育ててくれた母親は自分が中学の頃に癌で亡くなったのだが、
発見のときにもう既に手遅れだった。
悲しいけれど、みんなそれを承知でやっていた気がする。
最期の日は、自分が学校に行っていない間に、いろんな装置というかチューブが減っていて、
見るからに苦しそうに痙攣を起こすことがあった。
それは前日まで見られない光景だった。
何度か痙攣を繰り返した後静かになった。
医者を呼んでもすぐには来なかった気がした。
ひねた子どもには、みんなで引き金を引いた気がした。
これは罪なのだろうか?
制度として、これらをケアしたらいくらというのが、長寿医療制度の側面だと思う。
人をひとり看取り(死なせて)幾らという制度は、気持ち悪いというのがやはり現場の声であるが、
同時に仕方ないというのも事実。
人は必ず死ぬ。
自宅で死ぬのが本当は自然だという意見が多い。
病院は治る人を治すのが目的で、死に場所ではないという意見。
自宅では、その最期を面倒見切れないという現実。
必ず家に誰かいるわけではないし、心構えもない。
じゃあ、どこか?
安易な発想ではないだろうが、高齢者をケアしている人たちにまかせようか?ということだろうか。
人は死ぬ。
生まれることに意思はもてないが、死には自殺も含め、いかようにも出来てしまいかねない。
そこが難しいですね。
でも、振り返ってそれまでをどう生きるか。
つまり、西郷さんではないが、もうこのへんでよか!
と区切りをつけるためにも、ちゃんと生きないとね。
というわけで、えんえんと長くなりましたが、
そんなんばっか考えさせられるテキストを読んでいる仕事しています。
誰かを大事にしたいとか、そういう気持ちに無性になるのも自然なのかな。
死ぬ瞬間
難しい問題。
看取るのはつらいな。