「学級委員長」の復活と本当の平等

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090218/132811/?P=1

この記事では、少し自分も考えさせられた。

 

自分はファシリテーターという役割というかスキルを独学で学んでいる。もっとも習得した覚えはなく、もしかしたら、なりたいなといっているだけの人間かもしれないけれど。

その際に、一つのクラス、つまり学級委員長がいて、多数派や少数派、対立や、はみ出しものなど、それらがいる構図が世界の組織の大抵に当てはまると思っていた。

ただ、言い切るのは恐いけれど、極端な平等主義、記事のような全員でゴールなどという理不尽な平等の強制は非常に恐い者だと感じた。

組み体操などでピラミッドなんかは体の個体差と体力差で位置が決まる。
この位置づけを否定したら、ピラミッドどころか土台すらままならないだろう。

確かに、子どもの頃は身分は平等な一生徒であり、肩書きも単に与えられたものである。もちろん選挙など全員の合意のもと誕生するけど、それもうわべだけで、そこに上下関係は出来ないだろう。

自分もそれを理解したうえで、ロールプレイング、役割を演じるという意味で、クラスは参考になると考えている。決して自分の考えを肯定するつもりではないけれど。

本当は平等だけれども、何かを全体で成し遂げるときには、自己が積極的に前面に出るときもあるし、その逆に抑えるときもある。その際には軋轢も生じるけれど、ある意味逃れられない閉鎖された社会なので、今後のためにも関係の修復を試みたりする。そしてそれらの行為が経験として蓄積されると思うと、なかなか観察するとためになると思うのだけれど、どうだろう。まあ、不登校とか、退学とか、クラスの変更とかは別として。

大人の社会では、社長は偉いしそうそう批判できないが、学級委員長は(選ばれれば)誰にでもなれるし 逆にその意味で権力者ではない。だからこそ、どうすればみんながまとまるのか、それを考えるのは面白いかもしれない。

まあ、教育者じゃないから現場も知らないから多くを語ることは出来ないが、自分なりにこの頃考えることは、指導者と権力者の違いを考えてみた。

指導者は集団の先を見据えてその先、未来を指し示すことが出来る人間で、進むべき方向を示して前に進む人。進むべき周囲を知るためには一旦高いところに上る必要があるが、先が見えたらそこからおりて前進する人かと。

権力者は、原則人の上に立とうとする人。指導者と違い、一箇所にとどまり、自分の下に多くの人を従えることで、更なる高みへ上り詰める人。

指導者=善、権力者=悪、ではなく、社会が不安定なときは新しい軸を見出す指導者なる存在が求められ、安定期に入ったときには、権力者がきっちり束ねるということかな。

これが時代時代で機能していれば、社会は安定した発展ないし永続が可能かもしれない。

学級委員長とはかけ離れてしまったけれど、指導者も権力者も周囲が認めるからなれる者である。だから学級委員長も誰も認めなければ意味がない。そういった可能性などを互いでつぶしあった社会(ないし国家)はどんどん消滅していくと思うんですけど、どうなんだろう。優劣の二元的発想は短絡的だけど、相手の優れているところ、自分の優れているところなどを尊重して評価し合えて伸ばしあえる社会ないし組織づくり、ができたらなということで、ファシリテーターにあこがれるのでした。

Published in: on 2月 19, 2009 at 5:33 pm  コメントする  

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